創業100周年で記念祝賀会 梶原種鶏孵化場
大正8(1919)年に、初代梶原重夫氏が鶏200羽の養鶏業を始めてから、今年で100年を迎えた㈱梶原種鶏孵化場(梶原廣志社長ー本社・大分県宇佐市大字下乙女403)は9月20日、速見郡日出町のホテル&リゾーツ別府湾でユーザーの鶏卵生産者や取引先関係者、従業員ら約200人を招き、創業100周年記念祝賀会を開いた。
同社は現在、健康で高品質な採卵鶏初生ひなや中大雛の販売のほか、大分県が作出した地鶏「豊のしゃも」や「冠地どり」の種鶏・孵化事業、安心・安全な鶏卵と別府温泉の地獄蒸し卵、くん製卵などを生産する養鶏・加工事業、太陽光発電事業、賃貸物件や保養施設の不動産事業などを展開し、地域の発展に貢献している。
記念式典の冒頭あいさつした梶原社長は、多数の出席者に謝意を表するとともに「わが社は、大正8年に初代梶原重夫が八幡地区に創業し、種鶏孵化業を開始したが、当初は、ひなの注文は1年のうち春だけで、残りの期間は育種のほかにパン屋やうどん屋を兼業し、『生みの苦しみ』で苦労を重ねながら拡大。初代は、地域のためにと議員も経験し、昭和50年には勲章を受章した。
昭和42年に現在の株式会社組織とし、初代社長に就任した2代目梶原敏彦(現会長)は、若かりし頃は高等鑑別士として、フランスをはじめヨーロッパ各国で活躍し、国際貢献のかたわら種鶏・孵化を修行し、帰国後に家業を引き継ぎ、外国鶏のシェーバーを導入して、西日本有数の孵化場として成長させてきた。85歳になる会長は本日の祝賀会への出席を楽しみにしていたが、体調を崩したため欠席させていただいた。
平成16年に私が3代目として引き継いだが、その後の15年は大変な苦労の連続で、鶏種のことや、鳥インフルエンザをはじめとする鶏病のこと、資金面、ユーザー、従業員の問題などが次から次へと発生し、心の休まる時はなく、そのうえ孵化場と種鶏鶏舎の火災事故もあり、本当に『波乱万丈の物語』を経験した。
しかし、良いこともたくさんあった。子供3人に恵まれ、長男(現梶原康太郎専務取締役)は結婚して会社を継ぐ決心をしてくれた。そして、かわいい孫も4人でき、そのうえ会社もなんとか100年目にたどり着くことができた。
これもひとえに、本日お集まりのユーザーである生産者の皆様のご愛顧、関連する取引先の皆様のご協力、そして、長年にわたり、献身的に、たゆまぬ努力をしてくれている従業員の皆さんのご協力があってのことであり、本当にありがとうございます。創業100周年を期に、ますます努力、精進し、ヒヨコと卵を通して、お客様と社会の皆様に喜ばれ、必要とされる会社になるようまい進するため、今後とも、なお一層のご鞭撻を賜りますよう、切に、切にお願い申し上げます」などとお礼を述べた。
来賓を代表して一億総活躍・沖縄北方担当大臣の衛藤晟一参院議員(祝賀会出席はヒロ子夫人)と、前防衛大臣の岩屋毅衆院議員(同知子夫人)がそれぞれビデオメッセージで祝辞を述べ、是永修治宇佐市長、渡辺幹雄宇佐商工会議所会頭があいさつした。
衛藤氏は「企業は30年継続することが大変難しいと言われる中で、梶原種鶏孵化場が100年続いてきたのは、創業からの伝統を守りながら、時代のニーズ、先を見据えた開発・改善に挑戦し続け、いつの時代でもお客様に愛される商品を提供してきたからだと思う。鶏卵は3大栄養素の1つであるたんぱく質を手軽に摂取でき、様々な料理にも利用されるため、我々日本人にとって欠かせない食材である。安心・安全、新鮮でおいしい、質の高い卵を提供できる基礎となる種鶏孵化場として、ますます発展されることを心から期待している」とし、岩屋氏は「100年企業となることはなかなか至難なことで、長寿企業の秘訣は、なによりも自己変革力にある。時代やニーズの変化に合わせて自らを作り変えることができる企業が、長寿企業となる。梶原種鶏孵化場の役員、従業員の皆さんは、それを誠実にやってこられたと思っている。今後も伝統を引き継ぐと同時に、たゆまぬ自己変革を続けていただき、地域の、そして日本のリーダーとして、ますます発展していただきたい」と激励した。
是永市長は、同社の社歴を紹介しながら「梶原種鶏孵化場は、一貫して宇佐市への多大な貢献と同時に、大分県の養鶏振興に大きく寄与されてきている。100年を迎えるまでには大変な困難があったことを先ほど伺ったが、その都度、関係者の皆様が一致団結し、安心・安全をモットーに乗り越え、この日を迎えられた。梶原社長をはじめ従業員の皆さんは、次の100年に向かって気持ちを新たにされていると伺っており、宇佐市としてもできる限り支えていきたい」とした。
渡辺会頭は、祝賀会に出席できなかった梶原会長について「かつて何かの時に普通預金の通帳を見せてもらったら、桁の違う残高だった。後で思えば『お前もこんな風になれよ』との激励だったのだろう。会長はベンツに乗り、女性に愛され、我々のあこがれの人であった。ぜひ長生きしてほしい」とするとともに、「儲けた企業はたくさんあるが、梶原種鶏孵化場が100年続いたということは、本当に多大な社会貢献と、皆様方のご愛顧に支えられた結果であり、宇佐市の誇れる企業である。伝統ある会社を永遠に続けていくことを願っている」とした。
梶原社長から永年の取引企業である㈲三本松種鶏場の荒牧光会長と親和流通運輸㈱の田向未央社長に感謝状と記念品、永年勤続社員の銅野光夫、辛島由紀子、内田春子の3氏に記念品が贈呈され、荒牧会長が謝辞を述べた。
サプライズとして、㈱ゲン・コーポレーションの渡邉周治社長が、米国ハイライン社とドイツ・ローマン社から、それぞれ梶原種鶏孵化場に贈られてきた100周年を祝う盾を梶原社長に手渡した。
続いて開かれた祝賀会の冒頭、梶原康太郎専務取締役と知里夫人がまとめた梶原種鶏孵化場100年の写真がスライドで紹介され、後継者である梶原専務が今後の100年に向けてあいさつした。
荒牧洋一大分県養鶏協会会長(㈲グリーンファーム久住社長)の発声で乾杯し祝宴に移り、なごやかに歓談した。この間松島みらいさんの詩吟「宝船」、田向未央社長の長唄「福助」、USAジャズバンドのジャズ演奏、未来(みらい)&妃那(ひな)さんの中国変面ショーなどもあり、畠中直樹フィード・ワン㈱取締役専務執行役員の中締めでお開きとなった。